トランプ政権と日本・アジア 2017

米国株や為替に影響する時事問題を中心に政治動向をウォッチ。今さら聞けない常識も再確認。

東南アジアとオーストラリアの指導者一覧

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(16年秋のアセアンサミット:出所はWIKI画像) 

  アジアのニュースを見ていると、たまに見知らぬ国の指導者が出てきて、「この人、誰?」と思うことがよくあります。

 筆者はブログを書いている間に調べるので、半年前よりも詳しくはなりましたが、それでも、いまだに知らない指導者が出てきて、当惑することがよくあります。

 今回はニュースの便宜のためにアジア+オーストラリアの指導者の一覧を作りました。

 ASEAN諸国と豪州の大統領や首相の経歴や政策等を見てみます。

ミャンマー:アウンサン・スーチー国家顧問

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(出所はWIKI画像:各国首脳の画像は全てパブリックドメイン画像を使用)

 

 スーチー氏はミャンマーの「国家顧問」です(大統領はテイン・チョー氏)。

 憲法上、外国籍の親族のいる人物は大統領になれないので、2人の息子が英国籍のスーチー氏は大統領になれず、国家顧問として影響力を発揮しています。

 スーチー氏は2012年から連邦議会人民代表院議員を務めています。

 軍政から民政への転換をとげたミャンマーでは、15年11月に総選挙でスーチー氏が率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝し、16年2月には新議会が召集されました。そして、3月に現在の役職になりました。

 当初は四閣僚を兼務していたのですが、その後、外相と大統領府相兼務に仕事を絞ります。スーチー氏は、4月22日に首都ネピドーにて各国の外交団を招き「全ての国と友好関係を構築する」と述べました。これは欧米から睨まれた軍政時代と決別し、欧米諸国との友好関係を築くための第一歩でした。

 スーチー氏を親中・媚中的な人物として批判する人もいますが、ミャンマーはあまりにも中国に近く、国力差がありすぎるので、中国の顔色を窺わないと国の存続が危ぶまれるという一面もあります。 

 昨年も訪日しましたが、基本スタンスは親日的です。

 スーチー氏は父アウンサン将軍のことを詳しく知るために日本語を学びました。1980年代に2年間、英国のオクスフォード大学で日本語を学び、漢字を習得して三島由紀夫の小説を日本語で読めるまでになったとも言われています。85年から86年にかけて京都大学東南アジア研究センター(現東南アジア研究所)に訪問研究員として滞在し、滞在中、父アウンサン将軍と関係があった旧日本軍関係者への聞き取り等を行いました。

 その経歴を紹介してみましょう。 

 ・・・

 スーチー氏の母は看護師をしており、仏教徒の厳しい戒律に基づいた教育を行いました。母から亡き父の武勇伝等を聞き、「独立の父の娘」としての自覚を強めたのです。

 そして、1960年に母親とともにインドに留学します。デリー大学で政治学を専攻し、この頃にネルー首相やガンジーの思想に影響を受けました。

 64年にイギリスのオックスフォードに留学。哲学・政治学・経済学を専攻し、研究者としてキャリアを積み重ねていきました。
 この頃に国連の試験に受かり、国連スタッフとしても働きました。そして、72年にオックスフォード大学の研究者と結婚し、85年には京都大学東南アジア研究所研究員となります。87年にはロンドン大学でアジア・アフリカ研究所にも在籍しているので、幅広く欧米やアジアについて理解を深める機会を得ています。

 その後、88年に母親の病気を契機に帰国し、民主化運動に参加したのです。

 スーチー氏が民主化運動を始めたのは、ちょうど、ソ連で自由化が始まり、東欧の社会主義国が崩壊し、中国でも天安門事件等の民主化運動が起き、台湾が民主化する時期とも重なっています。

 スーチー氏は88年9月に国民民主連盟(NLD)を結成し、総書記に就任しました。当然、軍政から見れば不穏分子なので、89年7月には「国家防御法違反」で自宅軟禁を強いられます(91年3月には総書記を解任されましたが、この頃にノーベル平和賞が贈られました)。

  • 95年7月:自宅軟禁解除
  • 00年9月:当局により地方訪問を阻止され自宅軟禁
  • 02年5月:自宅軟禁解除
  • 03年5月:地方遊説中、当局に拘束され、同年9月28日より自宅軟禁
  • 09年5月:米国人自宅侵入事件で禁固3年。政府の特別措置で刑期を1年半に短縮、自宅軟禁措置に変更。
  • 10年11月: 自宅軟禁解除

 国民民主連盟(NLD)の書記長でしたが、スーチー氏は、20年間のうち14年以上を獄中や自宅軟禁下で過ごしています。
 自宅軟禁とその解除の繰り返しを経て、11年8月にテイン・セイン大統領と会談後、12年1月に国民民主連盟(NLD)議長に就任しました。その後、12年4月の議会補欠選に立候補し、当選しています。
 同年4月の補欠選では45議席中43議席をNLDが獲得。アウンサンスーチー氏も当選しました。

 その後、海外訪問を繰り返し、13年5月、16年11月には来日もしています。

ベトナム:指導部が3人(書記長、国家主席、首相)

 ベトナムの政治では、党書記長が一党独裁の共産党を仕切り、国家主席が軍事・外交を担い、首相は経済政策等の内政を担うことになっています。経済開放は進みましたが、一党独裁のままなので、ベトナム共産党の中央委員や政治局員にならないと政治的には出世ができません。

グエン・フー・チョン書記長

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  チョン書記長はベトナムにおける長老的存在のように見えます。

 現在72歳のグエン氏は1944年4月14日にハノイの貧しい農家に生まれます。

 ベトナム戦争中に大学生活を過ごし、23歳の時(67年)にハノイ総合大を卒業しました。この年に共産党に入党し、党機関誌「共産雑誌」の編集局員を務めています。その後、29歳の時(73年)にグエン・アイ・クォック党高級学校政治経済学部大学院に入り、37歳でソ連に留学しました。

 この人は結構、学究的な指導者です。

 81~83年にソ連社会科学アカデミーに留学し、そこで助教授を務めた後、39歳の時に政治学の博士号を取得し、帰国しました。その後、91~96年まで「共産雑誌」の編集長を務め、48歳の時に党中央委員に就任しました。

 50代になると、政治の仕事が増えてきます。

 54歳の時(96年)にハノイ市党委員会副委員長に就任し、翌年にはハノイ市党委員会委員長になりました。

 そして、55歳で党政治局員に昇格(党中央科学・教育委員会代表を務める)。

 62歳の時(06年)に国会議長となり、11年以降(69歳)、現在まで党書記長を務めることになりました。チョン氏は94年、95年、03年、08年、15年に訪日しており、15年には訪米し、オバマ大統領との会談を実現させています。

 人柄としては実直で誠実、調整型などとも評されていました。

 就任前には当時、有望視されたズン首相の去就の問題がありました。ズン首相は経済面で実績を挙げ、中国とも対決したのですが、ベトナム共産党内に賛否両論があり、書記長にはなれるほどの支持を得られなかったのです。 

チャン・ダイ・クアン国家主席

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 チャン国家主席は軍人としての経歴を積み、現在は国家安全保障を担っています。

 チャン氏は1956年10月12日にニンビン省に生まれました。

 16歳の時(72年)に人民警察学院に入学し、その後、内務省文化外語学院に進学。そのまま内務省で仕事を続けていきます。

 25歳から30歳頃(81~86年)に安全保障大学で学び、1987年(31歳)から参謀部長などを務めました。

 90年以降、参謀安全保障局で要職をこなすかたわら、グエン・アイ・クオック学院やハノイ法律大学で学問を積んでいます。1996年に参謀安全保障局局長等の要職につきますが、この頃にもホーチミン国家政治学院で学問を並行しました。

 00年(44歳)には公安省党委員会副書記、安全保障総局副総局長に任命されます。

 06年(50歳)に少将となり、公安次官や党中央委員に就任し、翌年には中将に昇進しました。

 そして、55歳の頃(11年)に政治の世界に参画します。まずは党政治局員となり、その後、ニンビン省から国会議員に当選しました(公安大臣に就任)。

 56歳で大将になり(12年12月)、16年に国家主席となったのです。

 97年と13年に訪日したこともあるようです。

 経歴の中にある「政治局員」については説明が必要でしょう。

 社会主義国家では軍隊は国の軍隊というよりは「党の軍隊」という位置づけになりますので、グアン国家主席も「政治局員」を経験しています。

 共産党が軍を支配するために、一定の数の政治局員を軍に配置するシステムがあるわけです。

 例えば、旧ソ連の原潜を舞台にした「レッドオクトーバーを追え」という小説(映画化もされている)では、潜水艦の艦長以下の軍人一同を監視する中央政府からのお目付け役として「政治局員」が描かれています(政治局員を暗殺し、潜水艦レッドオクトーバーが暴走するという筋書き)。

 要するに、政治サイドから送られた軍のお目付け役だと考えれば分かりやすくなるのかもしれません。 

グエン・スアン・フック首相

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 グエン・スアン・フック氏は1954年7月20日にクアンナム省で生まれました。

 73年(19歳)にハノイ国民経済大学に学び、78年(24歳)に卒業後、クアンナム=ダナン省経済管理委員会幹部を務めています。

 80年(26歳)からクアンナム省人民委員会で仕事を始め、国家行政学院で行政学を学んでいます(ベトナム共産党に正式加入したのは1983年)。

 90年代にはクアンナム省人民委員会、同省委員会の常務委員会等の要職を歴任し、1999年(45歳)にクアンナム省人民委員会主席となりました(04年まで)。

 06年(52歳)で党中央委員となり、政府監察院副総裁に就任。

 政府官房筆頭副長官(06年)から政府官房長官(07年)に昇格。

 11年に党政治局員となり、クアンナム省から国会議員として選ばれました。同年に47歳で副首相となり、2016年に首相となります。

 過去、四度も訪日しています(04年、11年、12年、14年)。トランプ政権成立後、17年5月に訪米し、首脳会談を行いました。

 経済開放路線(ドイモイ)や親日外交等は今後も継続されると見られています。

ラオス:トーンシン首相

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 現在、第六代首相を務めるトーンシン・タムマヴォン氏は、現在、73歳(1944年4月12日生)で、ラオス北部のフアパン県が出身地です。

 当時、ラオス人民革命党はフランスと戦っており、ラオス内戦中の1959年から革命運動に参加しています。

 若い頃は教職につき、63年から76年にかけてフアパン県の中学校校長や教育省職業訓練局次長等を歴任しました。

 トーンシン氏は、ラオス人民民主共和国の建国後、教育省組織局長(1976年~1982年)を務めています。

 1982年に人民革命党の中央委員候補となり、出世の糸口をつかみます。

 党中央委員に昇格し、党中央広報訓練委員会副委員長(82年~83年)となりました。

 文化大臣(83年~88年)を務め、88年には党中央委員に選出されます。その後、89年には最高人民議会副議長となり、憲法起草委員会委員にも名を連ねました。

 そのキャリアの中では教育行政の分野の経験が長いようです。

 91年には政治局員、最高人民議会議長代行を務めることになり、中央政治の要職に入りました。

 その後、党組織委員会委員長(92~01年)、ヴィエンチャン特別市市長兼党委員会書記(02年~06年)を歴任。2006年4月に国民議会議員選で当選。6月には同議長となりました。

 その後、10年12月に前任者のブアソーン・ブッパーヴァン首相が辞任し、第6代首相になったのです。

 15年3月に来日し、17年6月に再来日しました。ラオスは人口約650万人の国ですが、タイやベトナムに近く、今後の自由化の進展や経済成長が期待されています。

タイ:プラユット・チャンオチャ首相

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 タイ王国のプラユット・チャンオチャ首相は現在、63歳。1954年3月21日にタイのナコーンラーチャシーマー県(タイ東北部の入り口等と言われるが、地図上ではあまり北ではない)で生まれました。

  タイ王国防衛大学やチュラチョームクラオ陸軍士官学校を卒業し、その後、陸軍軍人としてキャリアを積みました。72年以来、軍歴を積み、陸軍大将の地位にあったのですが、インラック首相時代は政治的な混乱が続き、2014年5月に、前年から続くタイ反政府デモに向けて、戒厳令を発令しました。

 「国家平和秩序評議会(NCPO)」を結成して軍事クーデターによってタイ実権を掌握。ニワットタムロン首相代行が率いる政権を倒しました。これにより、約3年間続いたタクシン元首相派政権が倒れ、8月に正式に首相となりました。

 クーデター後、7月に公布された暫定憲法で国家立法会議(国会に相当)が設立されました。

 9月には、NCPO議長・プラユット陸軍総司令官を首相とする政権が発足。総選挙後までの1年間の政治を担当することになったのです。軍政は諸外国から批判を浴びましたが、NCPOはクーデター直後から景気回復策を打ち出し、2015年予算案やタイ投資委員会の手続きを再開させたので、景気減速の障害を除いた一面もあります。

 タイではたびたび「民政」と「軍政」の間で政権交代が繰り返され、民政が大混乱すると軍政が台頭し、「政治的な安定」をもたらすことが多かったのです。その評価は微妙ですが、日本や欧米とは政治文化がもともと違うので、外国が批判してもどうにもなりません。

 政権発足時の所信表明演説では、相続税と固定資産税による格差是正策や近隣国との経済連携の強化等を訴えています。15年2月にはプラユット首相は日泰首脳会談のために来日しました。

  17年7月には、プラユット首相が訪米し、トランプ大統領と首脳会談を行う予定です。

カンボジア:フン・セン首相

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 フンセン首相(66歳:1951年4月4日生)はカンボジア中部のコンポンチャムの農家で生まれました。

 父親は海南島出身の華人でフンセンは「雲昇」という中国語(海南語)に対応するともいわれています。 

 70年代には当時のロン・ノル政権に対抗し、北京亡命政権の下級部隊指揮官として従軍し(クメール・ルージュ軍に参加)、左目を負傷しています。フンセン氏は親中派と見られていますが、そのつながりはずいぶんと古い時代から続いているようです。

 77年には人民虐殺で悪名高いポル・ポト政権から離脱し、反ポル・ポト軍を結成し、ベトナムに亡命しました。

 79年にプノンペンが陥落し、今のカンボジアが成立。28歳の若さで外務大臣となり、1981年にはコンポン・チャム州の国会議員に当選。政権の副首相へと頭角を現します。

 84年末にチャン・シ首相が死に、フン・セン氏が85年に首相となりました。

 91年にフン・センは党中央委員会副議長に選出され、ベトナムのグエン・アイ・クォック社会科学学院から政治学博士号を授与されています。

 93年5月に国連管理下の総選挙が行われ、フンセン氏はノロドム・ラナリット(シアヌーク国王の次男)殿下が率いる暫定政権の共同首相に就任。

 この年に新憲法が発効し、カンボジア王国が成立すると、第二首相になります。

 その後もカンボジアでは内部闘争が続きましたが、フンセン氏は98年、04年、08年、13年に首相となっています。

 ややこしいのですが、09年以降、隣国のタイから逃亡中のタクシン・チナワット元首相を、個人アドバイザーに迎え入れました。ここでチナワット氏が経済顧問に就任し、影響力を発揮しています。

シンガポール:リー・シェンロン首相

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 シェンロン首相は1952年2月10日に建国の父であるリークアンユーの息子としてシンガポールで生まれました。

 そして、74年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ校を卒業(数学、コンピューター工学専攻)し、1980年にハーバード大学ケネディスクールを卒業(行政学修士)しました。

 シェンロン氏は軍でキャリアを積み、84年に退役後、政治家になりました。

  • 71年(19歳)シンガポール国軍入隊
  • 81年(29歳) 統合幕僚運用部長
  • 82年(30歳) 統合幕僚長

 異常に早い年齢で統合幕僚長になっています。退役時は准将でした。

 その後、政治家として歩み始めます。

  • 84年(32歳)国会議員初当選(以降計6選)
  • 84年(32歳)貿易産業担当国務大臣兼国防担当国務大臣
  • 87年(35歳)貿易産業大臣兼第二国防大臣
  • 90年(38歳)副首相兼貿易産業大臣
  • 93年(41歳)副首相
  • 98年(46歳)副首相のまま通貨監督庁(MAS)議長兼任
  • 01年(49歳)さらに財務大臣を兼任
  • 04年(49歳)首相兼財務大臣
  • 04年(49歳)人民行動党(PAP)書記長
  • 07年(55歳)首相(財務大臣兼任解消)

 15年のリークアンユー氏の死後、後継者となり、現在、人民行動党書記長を務めています。

 日本に対しては歴史認識問題で中国寄りの立場を取りながらも、国連安保理常任理事国入りを支持しています。

 シンガポールは華人が多いので中国寄りですが、安全保障上、米国との関係を頼みの綱にしているので、自由主義陣営の日本との関係も大事にしています。

マレーシア:ナジブ・ラザク首相

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  マレーシアのラザク首相の本名はハマド・ナジブ・ビン・トゥン・ハジ・アブドゥル・ラザク(長い・・・)。

 ラザク首相は63歳。1953年7月23日に生まれました。父親は第2代首相のトゥン・アブドゥル・ラザクです。マレーシアの第6代首相を務め、統一マレー国民組織(UMNO)の総裁を兼ねています。

 04年以来、副首相を務め、09年に首相となりました。

 クアラルンプールのセントジョンインスティテューションを卒業し、その後、イギリスのモルヴァーン・カレッジ、ノッティンガム大学を卒業しました。

 目立った施策としては、09年にクアラルンプールにて外資企業を誘致する国際金融地区「トゥン・ラザク・エクスチェンジ(TX)」を建設したことが挙げられます。

 不正疑惑も出ていますが、18年竣工予定なので、無事に完成できるかどうかが一つの見所になっています。

 オバマ政権との良好な関係を築き、15年には同大統領訪問を実現させました。

ブルネイ:ハサナル・ボルキア国王

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 ブルネイはインドネシアの北にある島嶼国家です。カリマンタン島北部にあり、南部はインドネシアと国境を接しています。

 ブルネイは立憲君主制ですが、法律の最終制定権が国王にあり、裁判官の任命権を国王が持っているので、その権限は極めて強大です。三権分立になっていないので、かつての強力な王政のスタイルがそのまま残っています。

 ブルネイは石油・天然ガスが豊富なので、これを財源にインフラ整備と高福祉を進めるという、資源国によくみられる政治が展開しています。国民の生活水準はよく、ラマダン明けの大祭では王宮が開放されるので、王と国民の距離は近く、関係も良好だと言われています。 

 ただ、資源依存の限界を見かね、今後は経済の多角化を目指そうとしています。

 王政国家を率いるボルキア国王(60歳)は1946年7月15日に生まれました(当時はまだイギリスの自治領)。そして、15歳で皇太子になり、19歳でサレハ王妃と結婚しました・

 学歴を見ると、64年にオマール・アリ・サイフディン・カレッジに入り、1966年にイギリスのサンドハースト王立陸軍士官学校へ留学しています(67年まで)。

 そして、68年(22歳)で戴冠し、正式に国王になりました。

 在位を数える時は、前国王が退任した1967年から数えるようです。在位49年なので、ずいぶんと長く治世が続いています。

 ブルネイはイスラームとしてはスンニ派に属しています。

 各国の君主の中でも有数の資産家でギネスブック入りした富豪でもあります。

 08年にフォーブスが個人資産は200億ドルの富豪として紹介しています。

 車のコレクションは5000台。自らボーイング747を運転するなどと、乗り物が非常に大好きな王様です。

フィリピン:ロドリゴ・ドゥテルテ大統領

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 ドゥテルテ氏は1945年にレイテ島で法律家の父と学校の先生の母の間に生まれました。

 71歳ですが、パワーが有り余っているので若く見えます。

 大学卒業後、10年ほど検察官を務め、政界に進出しました。なお、母方の祖父は中国系で、中国語も聞き取れるそうです。学生時代の逸話としては、ケンカばかりしていたとか、神父に青いインクを浴びせて退学させられた等の逸話が残っています。

「妹のジョセリン氏によると、ある晩、ドゥテルテ氏はけんかで負った刺し傷を押さえながら倒れるようにして家に帰ってきたという。またドゥレザ氏の話では、大学時代には友人が襲われた仕返しに同級生の足を銃で撃ったこともあった。同級生は回復し、ドゥテルテ氏が訴えられることはなかったという」(WSJ日本語版16/10/24「フィリピン大統領、「米国と決別」の裏に憤りの半生(後編)」)

 ただ、その後、検察官になっているので、勉強は得意だったのでしょう(強盗被害の経験から犯罪組織撲滅を誓って検事になったとも言われる)。大学時代にはフィリピン共産党の創設者から学んでいるので、このあたりが反米的な一面につながっているのかもしれません。

  • 88~98年:ダバオ市長(43~53歳)
  • 98~01年:下院議員(53~56歳)
  • 01~10年:ダバオ市長(56~65歳)
  • 10~13年:ダバオ市副市長(65~68歳)
  • 13~16年:ダバオ市長(68~71歳)
  • 16年6月30日以降:フィリピン大統領

 副大統領はレニー・ロブレド氏で、所属政党は「フィリピン民主党・国民の力」です。ダバオ市長から下院議員になったり副市長になったりしているのは、フィリピン憲法が同一人物が延々と同じ役職で選ばれ続けることを禁止しているためです。

 タバオ市はフィリピンのタバオ湾に面した都市で、ダバオ地方の中核都市です。タバオ市の広さは2400平方キロメートルなので、小さな都市国家のようなものです。人口は145万人なので、福岡市(146万人)と同じぐらいです。

 ドゥテルテ市長の時代は非常に景気がよく、治安もよくなったと言われています。この頃、自ら短銃を忍ばせて薬物取締を行い、「ダーティハリー」とも呼ばれました。

 ただ、ドゥテルテ氏は「自警団」が麻薬犯などを法を無視して私刑で殺すことを黙認したと人権団体から批判されています(本人はこうした殺人への関与を否定)。

 しかし、大統領選以降、フィリピン人の支持を勝ち取っているので、麻薬・犯罪対策に関しては国民の側に強い要望があったのは事実です。この措置の是非は今後も争点になりそうですが、人権擁護を訴える欧米や国連と、同氏を大統領に選んだフィリピン国民の民意との違いが際立っています。

 この新大統領がフィリピン人から支持されているのは、その暴言が民衆の本音を代弁しているからなのでしょう。

 フィリピンの民間調査会社が9月下旬に行った「大統領就任3ヶ月」調査では、ドゥテルテ氏への純満足度(満足度-準満足度)が64%もの高水準なので、これは92年のラモス大統領(66%)並みの数値です。 

インドネシア:ジョコ・ウィドド大統領

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 14年10月にインドネシア大統領に就任したジョコ・ウィドド氏は1961年に中部ジャワ州にあるスラカルタ(ソロ)市で生まれました。まだ53歳(誕生日は6/21)なので、各国の大統領の中では若い方です。

 趣味はロック音楽で、グーグルで検索するとカジュアルなシャツを来た姿が出てきます(顔つきは何となくオバマ氏と似ている)。

 スラカルタ市の貧しい大工の家に生まれ、父の家具工房を手伝いながら小中学校に通学していました。

 高校進学時の志望校への受験等を経てガジャ・マダ大学林業学部に進学し、木材加工を研究しました。この大学を24歳の時(85年)に卒業し、木工業の会社に勤めましたが、そこではうまくいかず、叔父の木材会社に勤務。その後、自分で家具製造と輸出を行う企業をつくりました。事業経営でも倒産と再建を経ながら二男一女を育てています。経歴を見ると、かなりの苦労人という感じがします。

 その後、31歳頃にインドネシア商工会議所のスラカルタ支部鉱業エネルギー部長に就任(92~96年)。41歳頃からインドネシア家具手工芸品協会会長(02~07年)を務めています。

 政治家としては、44歳(05年)の時にスラカルタ市長に就任し、2010年に再選されています。市長時代には、スラカルタ市を観光都市として盛り上げ、ヨーロッパ方式の都市計画を採用したり、ジャワ文化を振興したりしました。ジョコ氏が市長をしていた頃、スラカルタ市では2007年にワールドミュージックフェスティバルを開催したりもしています。

 そして、市長ニ期目の途中で州知事選に出馬し、51歳(12年)の時にジャカルタ首都特別州知事に転じました。知事時代には福祉政策に力を入れ、低所得者向けの無料医療サービス制度の導入等を行っています。

 やや慌ただしいのですが、2014年に知事一期目の途中で辞任し、14年のインドネシア大統領選に出馬しました。40代後半から一気に弾みがついてトントン拍子に大統領まで昇りつめています。このあたりは機を見るに敏だったと言うべきなのでしょう。

 ハンフィントンポストの記事によれば「ジョコ氏は国内では映画スター並みのファンがいる」そうです。

 大統領選では、汚職撲滅や経済成長率7%達成を訴えました。

 外務省の資料(「インドネシアの新政権について」14年12月)では、インドネシアでは「貧困率は低下するも,貧困層は依然多数」であり、10年時点で「人口の約46%が1日の所得2ドル未満」に置かれていたとされています。

 この資料は04年から13年までで「国民一人当たりGDPは3倍に」なった(1160ドル→3480ドル)と記していますが、貧困層の1日の所得水準が低すぎることと、一人当たりGDPは平均値でしかないことを考えれば、貧困層はいまだ多く、成長の分配が民衆に期待されたと考えるべきなのでしょう。

 なお、ジョコウィ氏を支援したのは01年~04年まで大統領を務めたメガワティ氏です。インドネシアでは軍人出身の政治家が大統領になることが多く、ジョコウィ氏の対抗馬だったプラボウォ・スビアント氏(62歳)はもともと陸軍の高官(戦略予備軍司令官)でした(得票率はジョコウィ氏53%:プラボウォ氏47%)。

 ジョコウィ氏の前任者にあたるユドヨノ大統領は軍人出身で04年~14年までの長期政権を敷き、国の安定と経済成長を実現しましたが、不人気な人事(宗教相に宗教的な少数派を軽視する人物をあてたと言われている)や政敵を汚職捜査で陥れた疑惑などが浮上し、新しく台頭してきたジョコウィ氏に敗れています。

 元軍人の政権が長く続いたので、政界に新風を吹き込む人材として、ジョコウィ氏に期待が集まりました。 

オーストラリア:ターンブル首相

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 トランプ大統領は就任後に1月28日にターンブル豪首相と電話会談を行いましたが、その際にはパプアニューギニアとナウルにある難民収容施設から1250人の移民を米国に受けいれるというオバマ大統領との合意をターンブル氏が確認したところ、トランプ氏が「史上最悪の合意だ」と一蹴し、オーストラリアは「次のボストンマラソン爆弾テロ犯」を輸出しようとしている激怒。電話会議はわずか25分で終わったと報じられていました。

 その後、ペンス副大統領が豪州を訪問し、その修復が図られたようです。

 このターンブル氏はどのような人物なのでしょうか。

 オーストラリア自由党を党首として率いるマルコム・ターンブル豪首相は1954年にシドニーで生まれました(62歳、誕生日は10/24)。

 シドニー大学では人文科学と法学を学び、その後、オックスフォード大学に留学(法学専攻)しています。

 75~79年まではジャーナリストを務め、80年以降は弁護士として働きました(88年頃まで)。

 企業経営にも携わり、ターンブル&パートナーズ社社長(87~97年)、オズeメール社会長(94~99年)、FTRホールディングス社取締役(95~04年)ゴールドマン・サックス・オーストラリア会長兼社長(97~01年)、ゴールドマン・サックス社パートナー(98~01年)と手広く活躍しています。

(※企業経営や投資等を通じて自力で1億3300万ドルの財産を築いたとも報じられている。東亜日報日本語版「豪新首相にターンブル氏、財産1569億ウォンの大富豪」2015/9/16) 

 政治家になる前は弁護士や投資に関わる企業経営をしていたわけです。

 そして、04年の10月に、シドニー東部のウェントワース選挙区にて下院議員(オーストラリア自由党)に選ばれます(その後、07年、10年、13年の三回の選挙で再選)。

 第4次ハワード内閣では環境・水資源を担当し、首相付政務次官(06年1月~)、環境・水資源大臣(07年1月~)を務めました。

 自由党が下野した後、財務や通信・ブロードバンド等を担当し、08年~09年には党首を務めていました(09年にアボット前首相に党首選で敗北)。

 現政権では通信大臣(13年~15年)を務め、15年にアボット首相の支持率が下がると、ターンブルはアボット首相に退陣を迫り、党首選挙の実施を要求しました。

 15年には中国を震源とした世界的な不況により、資源を中国に輸出したオーストラリアは打撃を受け、アボット首相の支持率が低下し、ターンブル氏にとって替わられたのです。

 16年9月の選挙では54対44で勝利し、自由党党首となり、同月15日に首相がターンブル氏に交代しました。これはアボット首相との信頼関係を深めてきた安倍首相にとってはショッキングな出来事でした。

 保守政党の党首を率いながらも、ターンブル氏はリベラル派です。

 アボット前首相が復活させた「ナイト」と「デイム」の称号を時代遅れと見なして授与廃止を表明。同性婚支持や、オーストラリアの英連邦脱退(女王のいない共和制への移行)等を主張しています。 

 各紙ではターンブル氏は親中派として報じられています。

 中国との貿易が緊密なオーストラリアでは反中外交は取りにくいのですが、前任者のアボット首相は中国と自由貿易協定を結びながらも、南シナ海問題では日米と連携し、安倍首相と同じく「法の支配」を訴えていました。

 一方、ターンブル氏は戦後70年の講演で、中国をオーストラリアと共に日本と戦った同盟者と位置づけ、日本からの潜水艦購入を見送る(フランスからの購入に決定)など、中国寄りの動きが見られます。

 16年4月14~15日には1000人の随行団を率いての大規模訪中も行われ、オーストラリアの「ダーウィン港の、中国企業への「租借」が決まったこともあり、安全保障上の不安が懸念され」ました。

 日本で言えば、民主党への政権交代直後の小沢訪中団によく似た行脚が行われたわけです。

 そして、この契約は99年間。「嵐橋集団」は人民解放軍と関係が深いとも言われています。オーストラリアではハワード首相⇒ラッド首相、アボット首相⇒ターンブル首相と、日米寄りと親中派の首相がたびたび交替しています。

 同国の主たる資源輸出先が中国なので、オーストラリアは親中派が根強く、日米寄りの外交が続かないようです(オーストラリアの輸出額のうち、対中依存度は3割程度)。