読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ゼロからやりなおす「政治と経済」

政治と経済について、いまさら聞けない知識を整理しつつ、ニュースがよりよくわかるデータを紹介していきます。

2017年は大政奉還150周年 高知県は坂本龍馬記念でお祭りモード?

f:id:minamiblog:20170103085852j:plain

(壁画「大政奉還」邨田丹陵筆。出所はWIKIパブリックドメイン画像)

  2017年は大政奉還150周年です。

 黒船が来た後に諸藩が台頭し、江戸幕府が政権を天皇に返してからちょうど150年になります。

 この節目に、各地でいろいろな記念行事が開催されています。

 2018年が明治維新150周年なので、これに合わせた町おこし、村おこしをしたいという考えもあるのでしょう。

 今日は、これにちなんで、龍馬と大政奉還について書いてみます。

高知県では坂本龍馬没後150周年行事を開催

 大政奉還といえば坂本龍馬を思い出す人もいるかもしれません。

 高知では「坂本龍馬没後150年」を記念して、県内各地では「志国高知 幕末維新博」が開幕します。「県立高知城歴史博物館」もリニューアルする予定です。

 高知県HPには「志国高知 幕末維新博」の説明も掲載されていました。

 開幕日の2017年3月4日には、坂本龍馬の書状をはじめとする幕末・維新関連資料、土佐藩主山内家に伝えられた美術品など約67,000点を収蔵する「高知県立高知城歴史博物館」がオープンし、未公開の貴重な資料を展示するとともに、博覧会のメイン会場として様々な企画展などを展開していきます。
 また、2018年春には、全国の龍馬ファンの聖地ともいわれる高知市桂浜の「高知県立坂本龍馬記念館」の新館がオープンし、実物資料の展示などを通じて、龍馬をより深く伝える施設に生まれ変わるとともに、博覧会第二幕のメイン会場としてより多くの誘客を図ります。

  坂本龍馬をしのぶ催し物です。

 しかし、坂本龍馬記念館のほうを見ると、残念なことに3月までしか見れないようです。4月からリニューアルに入るんだとか・・・。

2017年4月から約1年間、既存館リニューアル・新館建設工事および開館準備のため、全面休館いたします。(オープンは2018年春の予定)それにともない、2016年10月20日から、バス駐車場がご利用になれません。

 筆者はリニューアル期間が長すぎると思うのですが・・・

大政奉還を進言した坂本龍馬 

 詳しい方には要らない話ではありますが、坂本竜馬(1835~1867)について忘れてしまった人のために、まず、簡単なあらましを書いておきます。

 龍馬は土佐藩(今の高知県)から江戸に出て、18歳の頃に江戸で北辰一刀流の千葉定吉に師事し、剣の達人となります。

 その後、故郷で武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加しますが、暗殺路線と性が合わなかったのか、脱藩しました。江戸で勝海舟の門下生となり、神戸海軍操練所建設に尽力するわけです(不届者を斬るという名目で海舟に会いに行ったのですが、龍馬は全般的に暗殺をしないので、真意は別のところにあったのではないかとも言われている)。

 1865年には、薩摩藩の援助を得て、長崎で亀山社中を結成します。これは日本初の企業組織とも言われました。社中はその後、海援隊と名前を変えます。

 竜馬は1867年に薩長同盟を斡旋した後、「船中八策」を出し、大政奉還に尽力。この年の暮れに京で暗殺されてしまったのです。

 彼は「世の中の人は何とも言わば言え 我なすことは我のみぞ知る」という言葉どおり、独自の発想で世の中をくつがえそうとしました。

 海援隊は兵站(補給)を司る仕事をしていたので、ここから犬猿の仲だった薩摩と長州の接点を探っていくわけです。

 当時、開港論の薩摩は幕府に加担し、攘夷に急な長州藩を京都で追い落としたのですが、討幕の気運が高まるにつれ、戦力で勝る幕府に対抗するための薩長同盟が現実味を帯びてきたからです。

 龍馬は、薩摩挙兵の段の兵糧不足に目をつけると、豊富な糧食を持つ長州から賄うことを提案。さらには、薩摩から長州への武器援助を企画しました。

 そして、木戸孝允と西郷隆盛という難物の間を取り持ち、薩長同盟を成立させました(1867年)。この年に、竜馬は長崎から神戸に向かう舟中で、大政奉還、議会の設置、人材登用、不平等条約改定、憲法制定、海軍増強等からなる「船中八策」を提唱します。

「伏して願わくば、公明正大の道理に基づき、一大英断を以て天下を更始一新せん」(「船中八策」)

 当時、大政奉還は勝海舟も提案していましたが、龍馬はこの「船中八策」の最初に書かれた大政奉還案を土佐藩の後藤象二郎に伝えます。

 後藤は前土佐藩主の山内容堂に報告し、その後、土佐藩が単独で徳川慶喜に大政奉還建白書を提出することになるわけです。

竜馬は意外とリアリスト?

 当時の龍馬は薩長両軍が勝つのは難しいと見ていたようです。

 明治政府で財政を担った由利公正が、幕府と戦になった時の策を問われた龍馬はシビアな返答を返しています。

「これは最至難だ。朝廷には金も穀物の蓄えもない。信じて任せられる兵もない。有志が賛同しても、いわゆる烏合の衆だ」(品川陣居『海援隊長 坂本龍馬』興亜文化協会、P252、原文を現代語訳)

 勝海舟に学んだ龍馬は、当時の幕府と薩長の兵力差がよく分かっていたのでしょう。

 この兵力差を埋めるための薩長同盟でしたし、海援隊構想も「兵站と武器」が足りないという、現状分析に裏付けられた試みでした。

 泥沼の内戦のなかで列強に介入されるのを避けるには大政奉還が必要だ、というのが彼の構想だったわけです。

慶喜が諦めなければ幕府軍は勝てた?

 幕府は第二次長州征伐(1866年)に失敗したものの、当時、小栗忠順がフランスから大金を借りて幕府軍を近代化していたので、徳川慶喜が本気で薩長軍を倒そうと決断すれば、勝てたはずです。

 勝海舟が最後に西郷隆盛と談判するまでには、12隻の軍艦を用いて海軍力に劣る討幕軍を威嚇したこともあったともいわれています(石井孝著『勝海舟』吉川弘文館、1986年)。小栗の策は「軍艦から薩長軍を撃ちまくれば一網打尽だ!」という殲滅戦なので、これをやられたら軍艦の少ない薩長両軍はアウトだったでしょう。

 しかし、慶喜は1867年に大政奉還を決断しました。これは列強が迫る中で幕府と諸藩が争うことをよしとしなかったためだといわれています。

「外国との交際が日に盛んとなるに及んで、ますます朝廷が政治の場に出ていらっしゃらなければ綱紀は立ち難くなりました。従来の旧習を改め、政權を朝廷に返し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護できれば、我が国は必ず海外万国と並び立つことができましょう」(原文を現代語訳)

 明治維新が成った要因のなかでは、慶喜があっさり諦めてしまったことも大きな割合を占めていると思います。何と言っても大将だからです。

 結果的には、慶喜のおかげで日本の近代化が早まりましたが、慶喜は龍馬ほど偲ばれていません。

 気の毒ですが、やはり、人物としてヒーロー性が足りないと見られているからなのでしょう。