トランプ政権と日本・アジア 2017

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フィデル・カストロ氏、90歳で死去。 そもそも、キューバ革命って何だろう?

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(キューバ革命のもう一人の英雄 チェ・ゲバラ。出所はWIKIパブリックドメイン画像)

  キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が90歳で死去したことが各紙で報じられています。

 時事通信の記事(11/26)では「実弟のラウル・カストロ議長が『キューバ革命の最高司令官が今夜(25日夜)午後10時半ごろ、死去した』と国営テレビを通じて発表した」(「フィデル・カストロ氏死去=90歳、キューバ革命の英雄」)ことが報じられています。

 しかし、今の日本では、冷戦終了後に生れた世代が続々、社会人となり、ソ連崩壊や東欧革命さえ知らない若者が増えています。「冷戦、何それ?」という反応の世代の方々がこのニュースを見た時、カストロやキューバ革命に関しては、いっそうクエスチョンマークのフラグが立ちそうなので、ここでカストロとキューバ革命の過程をざっくりと整理してみます。

カストロが革命家になるまで

 フィデル・カストロ氏は1926年にスペイン移民の裕福な農園主の家庭に生まれ、高校生の頃には最優秀高校スポーツ選手にも選ばれるなど、活動派の少年でした。

 1945年にハバナ大学に入って法律を学んだのですが、政治活動に熱中するなかで革命運動に目覚めます。革命反乱同盟 (UTR) において南米の学生運動を盛り上げようと試みたのです。野球はこの頃も続けており、メジャーリーグ選抜選手団と対戦するなど、投手としての力量を示しています。

 革命に目覚めながらも、彼は1950年に大学を卒業し、弁護士になりました。貧困者のために活動し、1952年にキューバの保守党から議会選挙に立候補します。

 この時、不幸なことにバティスタ将軍(1901-1973、52年~59年まで軍政独裁の親米政権が敷く)がクーデターを起して政府を乗っ取り、選挙の結果が無効にされてしまいます。カストロは憲法裁判所に将軍を告発するも、当然、権力の僕と化した裁判所は請願を拒絶。ここでカストロは武装闘争を開始するのです。

(※20世紀初めのキューバ独立からバティスタ政権崩壊までアメリカはキューバの政治を実質的に支配し、製糖業などの主要産業を支配していた)

キューバ革命って何?

 この頃のキューバ政治は、バティスタ将軍が国を牛耳っていたのですが、カストロは1953年7月、弟のラウルやチェ・ゲバラを含む130名の仲間をつのってキューバ東部にあるモンカダ兵営を攻撃します。80人以上が死に、フィデルは逮捕され、懲役15年で投獄されました。

 冷戦の中でバティスタ政権は対米従属の政治を続けていたため、不満を募らせた国民を率いる指導者としてフィデル・カストロが台頭してきたのです。

 彼はその後、大赦で釈放され、メキシコ へ亡命し、革命勢力を糾合して1956年にキューバに再潜入を試みます。

 この時、ヨットに乗って80名で白昼堂々と上陸し、空軍の攻撃を受けながらも生き延びた十数名が山中でゲリラ戦を展開したそうですから、まるで冒険活劇さながらです。

 カストロの革命軍は地方から首都攻略を狙い、多数の農民の支持を得、1959年1月1日にハバナを陥落させます。

 この頃、一緒に戦っていたのがアルゼンチン人のチェ・ゲバラ(1928-1967) です。ゲバラはブエノスアイレス大学医学部を卒業し、中南米を放浪している間に、圧政と不平等の中で貧しい人々が苦しむ姿を見て、革命家となりました。メキシコでカストロと出会い、キューバ革命軍に参加します(カストロ政権では工業大臣などの要職を務め、38歳で死去)。

社会主義の選択とキューバ危機

 カストロの革命政権は、アメリカ系企業の接収や農地改革等を行います。

 当然、怒り心頭に達したアメリカはキューバ援助を打切り、輸出禁止措置を決断しました。1961年1月には国交が断絶し、4月にはアメリカが支援した半革命部隊が武力侵入を試みます(ピッグズ湾事件)。

 冷戦時代なので、反米路線ならばソ連と手を組むのが有利と見て、カストロは社会主義路線に舵を切りました。

 この舵が「火事」を招き、核戦争の直前に到る「キューバ危機」が勃発したのです。

 1962年にソ連がキューバで核ミサイル基地の建設を進めていることが分かり、米海軍は核兵器を積んだソ連船の到着を阻むべく、同年10月に海上封鎖を行いました。ここで、米ソ対立が頂点に達し、お互いに「核兵器を使うか使うまいか」というチキンレースが展開されます。

 当時のソ連は強気でしたが、実際の核戦力では米国に及ばなかったので、フルシチョフ書記長は折れ、ケネディ大統領との間で和睦が成立。

 その後、アメリカは1962年にキューバ貿易全面禁止を決め、これが半世紀ほど続きました。これに対抗するキューバは72年7月にソ連主導の経済相互援助会議(コメコン)に加入しています。

 カストロ氏は76年12月に国家評議会議長に就任。反カストロ勢力など、キューバから亡命する人々も後を絶たず、カストロ氏が「革命が嫌な者は去るがいい」と述べた80年には125000人、ソ連崩壊後の経済難が深刻化した94年には35000人の「大流出」が起きたとも言われています(朝日朝刊11面:2016/5/18)。

 さらには、96年3月にはアメリカでキューバ経済制裁強化法が成立しました。

 こうした過程を経て、カストロ氏は国を率いてきたわけです。

近年のキューバは、社会主義路線を緩和

 1991年のソ連崩壊後、ソ連からの支援が止まり、経済的には苦しい時代が続き、亡命者も増えました。この時、キューバは経済改革を行い、外国資本導入、国民の外貨所持解禁、部分的な自営業認可、個人への農地分与、農産物の自由市場の再開等の措置を取ります。

 そして、社会主義国なのに国民はカトリックが多数派だったので、無神論者のカストロもキリスト教徒への宥和策を取り、1996年にバチカン訪問を行い、98年にはヨハネ・パウロ2世のキューバ訪問が実現しました。

(なお、1995年と2003年にフィデル・カストロ前議長の訪日も実現。2000年にはロシアを訪問し、プーチン氏との親交を深めた)

 そして、2008年にカストロ国家評議会議長は引退し、実弟ラウル・カストロ副議長が、議長を務めています。

 オバマ大統領は2014年12月に国交正常化の方針を明らかにし、その後、2015年4月に米国とキューバは国交回復。2016年3月20日にオバマ大統領は正式にキューバを訪問。カストロ氏と握手し、首脳会談を行いました。 

 オバマ政権は対キューバ禁輸措置の全面解除は反対派である共和党が多数を占める議会では実現困難とみて、大統領令による貿易、渡航、金融に関する規制緩和を進めています(トランプ氏はオバマ政権がカストロ政権に一方的な譲歩を行ったと批判)。

 15年9月には安倍首相とカストロ前国家評議会議長との会談も実現しました。

 安倍首相は、この時、カストロ広島訪問時の原爆批判の発言(「人類は,このような経験を,二度と繰り返してはいけない」)を紹介し、農業や医療,教育などでキューバ支援を行うことを伝えています。この狙いは、北朝鮮ともつながりの深いキューバに向けて、北朝鮮対策での協力を呼びかけることにあったようです。

(※日・キューバ首脳会談では、日本からの12億円規模の医療機材の無償供与、総額1800億円のキューバの対日債務のうち1200億円の免除などが決まりました)

 カストロ議長はこの会談で健在ぶりをPRしていました。

 しかし、カストロが没した後は、キューバが自由主義寄りになるのか、社会主義国寄りになるのかが注目されることになりそうです。

※追記:カストロ氏は12月4日に埋葬された(産経8面:2016/12/5)

 フィデル氏の遺灰は11月30日に首都ハバナを出発。3日に革命広場で追悼集会。4日には国旗を振った市民が遺灰と最後の別れを告げた。3日夜にはラウル氏が兄の功績を讃えながらもフィデル氏の遺志を尊重し、個人崇拝をしない方針を固めたという。